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同じことしか言わない人たちの場所

小さい頃(5才くらい)の夢はサラリーマンだった。なりたいものというイメージがわかず、多分知ってる適当な言葉で近いものを言ったんだと思う。やがて具体性を帯びて、ゲームの製作者というところ(12才)まで来たが、ネットに出会ったあたり(13才)で建築家やら航空宇宙とかあっちこっちした。

ただ、具体的に何かになりたいと言っても、閉鎖的な田舎で暮らしてる人が発想できることは知れていて、これといった有意義なアドバイスを受けたことはない。それがわかってかそれともたまたまか、父親は俺をイギリスに飛ばそうとしていた。14のとき。

まあそのときは意味も分からねえんで拒否したが、今思えば、自分でできることに限界があることくらいはわかってたゆえの提案だったのかなと。

これだけ文明が進み、ネットによる情報の分散も拡大する中、人のメンタリティは相変わらず付いてこない。というのが土着の傾向である。享受できる科学技術の最下流を受けて、それが全てだと思っている。知らないことに怯え、ごく一部だけをかじってお腹いっぱい。まさに底が浅い

これは過ぎた人には何も悪いことではないが、これからの人間にとっては極めて有害である。エリアは程度がその人間の枠に収まり発展していかない。変わっていく情勢とは無関係に昨日という前例を望む。

よくドラマで地域開発がテーマになると、地の人間を排除することが悪であるような感情の訴え方をする。しかし、人間の歴史はずっとそういうことを乗り越える上で進化をしてきたはずだ。過去に学ぶなら切り替えて次を考えることこそが生産的なのである

できない、もう年だから。というのも一方で理解はできる。しかし、若い時は若いなりに過ごし、年に備えなかったのが悪い。ずっと現役な人が果たしてナチュラルボーンでそうだと言えるだろうか。年だけはどうにもできないという多数決に甘えただけとは言えないか

なぜ古代のエジプトで「近頃の若いものは」とわざわざ記したか。これはいつか見る未来の人間がまだ同じことを言ってては進歩がないという皮肉だろう、と俺は想像する。「人は変わらないなあ、あはは」なんて言ってるボンクラは典型的な思考停止なのだ
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