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楽をさせないという言葉と態度、それとその実

学校じゃないんだから、手取り足取り教えてられないという話を各所で聞く機会があるわけです。まあ、その辺のスタンスはいろいろつっこみどころがあって、学校でも手取り足取りなんて受けたことないし、せいぜい中学とか義務教育のレベルちゃいますか的な。

だから、少なくとも高等教育を受けた人は受けた人なりの常識みたいなものを持っているはずです。そんな中、では社内教育をどう考えているのかとも思うんですよね。

職人の界隈が本当にそうなのか知る由も無いですけど、見て盗めなんてやってきた結果どれだけ消えた文化があるんですかと。実際、なくなったものは残す価値もなかったものと言えるかもしれませんし、残すべきものなんて考えは見当違いとも思ったりもします。

なんのための教育かという点で言えば、それは将来の自分へのプレミアムという説明でぼくは納得しています。

学校におけるそれは習慣を含め、学習による効果を実感することで人生をイージーモードにする効果があります。仕事においては自分のクリエイティビティに割く時間の創出にも繋がるわけです。

ここで、教育にリソースを割かないデメリットはどこに出るのかを考えると、何かドウデモイイ作業をするのにも自分の時間を使わないといけなくなることが主であると言えます。テクノロジーはなんのために存在するかというのも、もはや人に教育する手間すら惜しいという結果では無いでせうか。自動ドアかドアマンかみたいな。

したがって、ロボやAIに仕事を奪われることに危機感を抱いている人は、クッソしょうもない価値のないことでも自分でやった気でいたいというメンタルが湧いている、ということになります。何もしないで、かつ自分が優位でいるには後続を育てないに限ります。上っ面では自分で考えてとか言いますが、たかだか組織にぶら下がるだけの人に本当に自分の頭で〜なんていうでしょうか。

よほどの会社でも強大なボスの元でそのボスのコピーみたいにボス以下が機能する方が利益は最大化するように感じます。それこそプログラミング並みにセットして走るだけくらいに。

たかだか仕事や労働に凝った理由なんていらないんですけどね。つまんねえ理屈ごねたい人が世の中には多いわけです。
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